日記。

日々の徒然を書き留めてます。

Relationship

7/26(水)
この一週間、我が家は果物に溢れている。桃、マスカット、パッションフルーツなど、僕は食前食後関係なくテーブルにある物を右から左へと平らげている。多幸感。今まで何度か1人での生活を経験したことがあるけど、果物って意外と高いんだよね。だから僕は家に果物があるときは努めて積極的に食べるようにしている。
今となってはその真意こそ分からないが、祖父はことあるごとに誰かと関係を作りたがる人だった。ライフワークと言っても過言ではなかったろう。そんな祖父には一風変わった習慣があり、それは関係を持った人たちに定期的に果物を送る、というものだった。その習慣がいつ始まったのかは定かではないが、僕が物心ついた時には山形の果樹園の段ボールが部屋の隅に積まれていた。
さて、ここで今話したいのは祖父から果物をもらっていた人たち(ちなみに僕ら家族も含まれている)ではなく、その仕入先だったある果樹園についてだ。祖父が亡くなってからしばらくした頃、例の果樹園から電話が来た。例年だとこの時期に注文の連絡が来るのに今年はそれが無かったから不審に思ったらしい(すごい)。母が事の顛末を伝えると、後日、一枚の手紙と山盛りのフルーツが送られてきた。もちろんお金は払っていない。
贈与とは、金銭を伴わずにモノを送り与えることだ。現代では、例えばバレンタインデーのチョコレートだったり、親しい人への誕生日プレゼントのように、ギフトは楽しいものだったりする。しかしフランスの社会学者であるマルセル・モースが著した『贈与論』によると、原始社会では贈与・受け取り・返礼は義務であると捉えられていた。自発的であることが望ましい現代の贈り物価値観とは異なり、なんとも窮屈でせせこましい世界だと思った。というのも、当時は贈り物には魂が宿ると考えられていたらしい。現代の価値観に照らし合わせてみると、それは税金だったり呪物のような見方をされていたのかもしれない。ただ、送られてきたモノに対し何も返さないというのはうしろめたさを感じてしまうのは現代にも通ずる感覚だろう。
祖父と例の果樹園はあくまでも買い手と売り手だが、長い期間を経ることでそれ以上の関係になっていた。当事者の間に貨幣を挟むことで面倒くさい人間どうしのしがらみから逃れられるが、それでも祖父は繋がりを構築することを怠らなかった。時代の傾向?個人の性格?結局、母は悩んだ末に例の果樹園に手紙を一通送り、彼らの長い長いリレーションシップを完了させることに決めた。なにか、時代の移り変わりを感じさせる出来事だと思った。ちなみにこれは去年の出来事です。最近果物多いからそれで思い出しただけ・・・今回も上手くまとめられなかったなあ。f:id:gaku-diary:20230801070532j:image