日記。

日々の徒然を書き留めてます。

受精したから生まれただけの話じゃ

12/10(日)
彼女と本屋をぶらついていた時、ふとそれは目に入った。本の帯表紙にデカデカと書かれている『やがて死ぬのになぜ生きるのか』。まさに僕が大学時代に直面した人生最大の疑問が、そのままの文言で本の帯表紙になっていた。本のタイトルは『歎異抄ってなんだろう』。歎異抄というのは、鎌倉時代に生きた仏教徒親鸞の教えを、その弟子が分かりやすくまとめた仏教書だ。これはその解説書のひとつ。歎異抄の存在は既に知っており20歳の時に購入したのだが、まあなんて書いてあるか分からずちんぷんかんで本棚の隅に追いやっていた。
18歳の時、次第に大学に通うことがキツくなり始めていた。これまでの人生を制度や慣習に盲目的に従って過ごしていたせいで、突如与えられた自由に苦しむこととなったのだ。大学を卒業し就職しなければならない。けれども本当はそうじゃなくても良い。精神的には解放されていたのに体がどうも追いつかなかった。その時頭に浮かんだ疑問が「結局最後は何もかも無に帰るのに、なぜ1限に間に合うよう起きなきゃいけないのか」だった。
あれから自分なりに悩み考え、今はあの時の疑問を単なる進化論的な自然現象として片付けることに成功しつつある。もちろん体系的にがっつり学んだわけではないが、僕の頭を納得させるには充分な論理だと思う。だから今は「やがて死ぬのになぜ生きるのか」と問われても、「生きることになぜもクソもあるかい!受精したから生まれただけの話じゃ」と一蹴できる。しかし同時に、本当にこれが世界の全てなのだろうか、と思わなくもない。というのも、進化論に基づいた物事の説明は異様なまでにシンプルだ。哲学的な深掘りさえしなければ(意識とは何だろう、的な)大体の因果を自然淘汰の結果と言い換えることができる。自分的にはこれで充分だし99%納得しているのだが、今後残りの1%に出くわさないとも限らない。もしそんなことが起これば、たちまちに自分が崩れてしまう気もする・・・と、まあ、長々と書いてみたが、ここで一回原点に帰り、改めて数年前の疑問に向き合ってみようと思った。それに、科学がまだ不確かな時代に人々が何を頼りに生きてきたのかを知ってみたいしね。ヨシ、購入。f:id:gaku-diary:20231219100539j:image