日記。

日々の徒然を書き留めてます。

蟹工船を読む

6/16(木)

「おい地獄さ行ぐんだで!」

強烈な一文で始まる小林多喜二蟹工船」。悲惨な労働環境を描いた、プロレタリア文学を代表する作品だ。

プロレタリア文学ってな~に~?

おっと失敬。ここでおさらいだ。プロレタリアっていうのは、資本主義社会において自分の労働力以外に生産手段を持たない人たちのことを指しているよ。戦前、お金のない労働者は今じゃ考えられないほど劣悪な環境で働かされていて、彼らの怒りや叫びを表現したものをプロレタリア文学と言うんだ。

会社にいる時間、めちゃんこ暇すぎてついに読み切ってしまった。仕事中に蟹工船を読んでるの、天国の小林多喜二が知ったらなんて思うだろう。労働者はここまで強くなったぞ、多喜二。

以下、感想。

見慣れない単語が多く、読みづらい箇所がちょいちょいあったが内容はなんとか飲み込めた。ガチ寒で知られるカムチャッカ半島沖で蟹漁をする労働者が、工船内でストライキするお話。ちなみに工船というのは工場と船を合体させたもので、船内でカニ缶まで作れちゃう。そのくせ船でも工場でもないから航海法も工場法も適応されず、当時はやりたい放題だったらしい。だから蟹工船なんだね。

読んでいて、あることに気づく。(・・・主人公いなくね?)そうなのだ。これが今まで私が読んできた作品と大きく異なる点。物語展開の軸が個人でなく集団になっている。

私の知っている範囲の小説では、各登場人物は各々の役割を持って物語を演じている。彼ら自身が物語を動かす要素であるから、当然名前を持っているし、そうでなくとも一発で個人を特定できる記号を筆者から与えられているものだ(例えば、芥川龍之介羅生門」で名前をもっているキャラクターはいないが、”下人”といえば主人公のただ一人に候補は絞られる)。

ただしこの「蟹工船」。作中、名前がついているキャラは敵の一人しか出てこない。他の登場人物も漁夫、雑夫、学生上がり、といった身分・肩書で区分けはとどまっており、個人の細かい心理描写や性格描写も最小限に抑えられている。漁夫が何かを言ったとしても、次のページに出てくる漁夫は先の人とは違うかもしれないのだ。このことから、小林多喜二は「個」よりも「集団」に重点を置いてこの小説を書いたことが伺える。ここではあなたが誰かは関係ない。あなた”たち”がどの立場にいて、何を言いたいのかが重要なのだ。

これは資本力によって虐げられ、虫ケラ以下の扱いを受けてきた労働者が団結し社会に立ち向かう物語だ。

このような構成の小説を初めて読んだ。同時代を生きた芥川龍之介は「羅生門」でエゴイズムを、谷崎潤一郎は「刺青」でサディズムを表現した。どちらも特定の個人を切り口に、「ほら、君の中身こんなんなってるけど大丈夫?w」と、人間の中に潜む何かドロドロしたものを見せつけてくる作品だった。それもそれで大好きなのだが、小林多喜二蟹工船」。これは虐げられた人間の集団心理を描いている。彼らのストライキは失敗に終わったが、同時に教訓も得た。全員で、一人残らず同じことをすることだ。そこで物語は終わっている。火蓋は切って落とされた。「力を合わせれば俺たちにだってやれるんだ!」そう思わせてくれる、危険な作品だった。もう俺、全然”赤化”しちゃう。

そう。危険すぎたのだ。1933年、小林多喜二特別高等警察(秘密警察)による拷問で死亡した。わずか29歳だった。全身が異常に腫れあがった多喜二の遺体を抱いた母は「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」と叫んだという。職場で泣きそうになりました。

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