精神病院
6/1(水)
ここは関東某所の山奥。初夏。人間社会から遠く離れた場所にあるこの精神病院に、目当ての患者はいた。ぱっと見、どこにでもいる虚弱な青年だった。だが、受け答えがしっかりしている割に、目は常に焦点を捉えていない。私にはそれだけがちと不気味であった。
これは、患者の証言をまとめた記録書である。
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ええ、僕はその日、確かに朝の5時半に目が覚めたんです。あ、とは言っても僕はどうも寝起きが悪いもんで、アラームを複数かけてから寝るようにしてるんです。ほら、いきなり起きて支度するより、二度寝三度寝してからのほうが起きやすいでしょう?へへっ。つまり、その日にかけていたアラームは05:30、06:40、06:50、07:00の4つでした。
はい。僕はたしかに朝の5時半に一時起きました。LINEをチェックしたのも覚えております。ただ、、、
ーーー「ただ?」
ただ、次に目が覚めたのは08:02だったんですよ。会社には絶対間に合いません。もしこれが7時20分とか、30分なら、焦って飛び起き家を出ることもできたでしょう。ただ、その時僕は異様なまでに落ち着いてたんですね。人は、どう足掻いても不可能な環境に陥った時、逆に安心する生き物なんじゃないでしょうかね。かつて人間は、コントロールできない自然に対して「神」という概念を持ち込んで自己の責任を免れました。私には、08:02が神に見えましたよ。へへっ、、、。
ーーー「会社にはなんて言ったんですか?」
そうですね。素直に寝坊しました、なんていうのは少々癪に触るんで、頭痛で休むってことにしました。連絡した後すぐに上司から電話が来ましたが、出るわけにはいきません。何せ僕は今頭痛で苦しんでる途中なんですからね。人を呪わば穴二つ。この仮病は墓場まで持っていくつもりですよ。
そのあと僕はぐっすり眠りました。ん?疲れていたのかって?いえいえ。実を言うと今の仕事はかなり楽なんですね。疲れるなんてことはまずあり得ません。毎日体力を余らせて帰宅するもんですから、全く眠れないんですよ。ですから毎日夜遅くまでゲームしちゃって寝不足で出社するハメになるんですけどね。ははは。
ーーー「一日中寝ていたんですか?」
いえ。起きたのは12時40分です。彼女から電話で起こされましたーーなぜ電話が来たのかはわかりませんがーーまあせっかく起きたもんですから、インスタの広告で出てきたスタバのメロンフラペチーノを飲もうと思い上野駅に降りてーーーーーー
記録はここで終わっている。怖ろしくなった私はここで逃げ出してしまったのだ。寝坊して、仮病を使い、スタバの新作を飲むこの男が同じ人間なはずがない。いや、これもまた人間なのだろう。ただあの男は社会のルールやマナーを知らずにあそこまで育ってしまっただけなのだ。この山奥の精神病院が奴にとっても、我々にとっても、都合の良い居場所なのだ。
背後を見やると、重い緑が私を見下ろしていた。