日記。

日々の徒然を書き留めてます。

おじいちゃんと箸袋

6/19(日)

久しぶりにおじいちゃんといつもの居酒屋に行った。夫婦が営んでいるその居酒屋は、まだ俺がお酒飲めない時から連れてってくれたところで、かれこれ10年くらいは通っている。子供の頃は大人の話なんか分からないから一人で箸袋を折って遊んでいた。そしたらおかみさんがその箸袋を気に入ってくれて、以来俺の中では「行ったら褒めてくれる場所」として存在感を放っている。

友達におじいちゃんと飲みに行った話をすると、かなり珍しがられる。そんなイベントは万に一つもないらしい。たまたま家が近くにあって、飲み好きな人だからこうなっているだけだと思う。

話す内容といえば昔話か、俺への説教。

「お前はもう本当だめだ。ふらっかふらっかほっつき歩いて、根を張ろうとしない。石の上にも三年というが3秒も耐えた試しがない。だめだだめだ。本当に情けない・・・」と、話すおじいちゃんは本当に嬉しそうで、そんなおじいちゃんが大好きだ。

そんなおじいちゃんは今年で79歳。元々恰幅が良いので特に弱っているようには見えないが、最近は趣味の散歩が減ったり、人と会うのが億劫になっているらしい。母親談。20代前半でお店を開業し、数十年間休まず働き続けるバイタリティ溢れる人だったけど確実に死が近づいていた。

おじいちゃんが死んだら、俺はどれだけ悲しむんだろう。めちゃくちゃ号泣するのかな。でも俺が泣き始めるタイミングは、誰かが泣き始めた瞬間だろうなあ。自分一人だったら感情の出口を見つけられないから。本日のお会計は7500円。今日は俺が奢るよ。

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懐古談はコスパが良い。

6/18(土)

今日、叔父家族と祖母が来た。

前々から家族のグループLINEで告知されていたことではあったが、最後に会ったのが4年前ということもあり少々落ち着かない。親戚との距離感は数年に一回訪れる困惑ポイントだ。しかも今日に合わせてしばらく会っていない兄と妹も参戦。余計自分の立ち位置に困る。

昨日泊まっていた彼女の家を出て昼過ぎに実家到着。既に祖母、兄妹が来ていた。数年ぶりの祖母は見た目ほとんど変わっていなくて安心。何話そう・・・と迷っていたが、会話の内容がほとんど近況報告と過去の事実確認だったのでさほど困らなかった。過去の事実確認いいな。頭を使わずノスタルジックに浸れるからコスパが良い。弱点は数年に一回しか使えないところ。

ほどなくして叔父家族が到着。前に会った時赤ちゃんだったいとこ達とも再開。「またデカくなってる〜」と言うと、叔父から「こっちのセリフだわ」とつっこまれた。俺はしぼんでいってるわ。叔父は会う度決まってお小遣いの一万円をくれる人だったので、その文化を継承し俺もいとこに一万円ずつ支給する。痛い出費だぜ・・・。

最後に収支。

祖母・・・3万円

叔父・・・3万円

いとこ・・・−2万円

合計+4万

あれ!?黒字になってる!?数年に一回のイベントはハプニング性も絡んでくる。ありがとう。

あと、今日の日記は書きづらかった。家族関係についてあまり考えがまとまっていないからか、何度も書き直してしまった。

構造は1人でつくれるものではない

6/17(金)

最後の出勤。と思われたが俺を採用したゲストハウスから連絡が来ない。今後のことについて連絡が来ないうちにはまだ退職願は出せない。報連相しっかりしろと言いたいところ。でもこのルーズさが性に合う気がする。

今日は同期と2人で新入社員のサポート業務をした。正直この時間は好きではない。先輩-後輩という権力構造が簡単にできてしまい、教える側に回った同期が普段よりイキイキしているのを見るのが嫌だからだ。"人に教えることができる権利"を与えられた人間は往々にして自信を持ち、視野が狭くなり、自分の間違いを認めにくくなる。

思えば、そういった現場を散々見てきた。

中2の頃、社会人一年目の教員が部活の顧問になった。まだ権力を扱い慣れていなかったからか、非合理かつ無茶な命令をしてよく1年を泣かしていた。ちなみに、最終的にはその子の親が抗議し教員は俺らに頭を下げたが、そこに保護者-教員-生徒という力関係が見えてしまい彼のことを素直に尊敬できなくなってしまった。部活外では面白い人だったし、割と好きだったのになあ。

話を戻そう。当たり前かもしれないが、構造は一人でつくれるものではない。命令する側とされる側、双方が満足した場合にその構造は長生きする。命令される側にだって良いことはある。それは何も考えず命令に従っていればよい、という点だ。ただ命令に従っている状態というのは、責任から解放された"自由"を感じることができる瞬間でもある。だから、教わる側の人にとって、視野が狭くなり自分の間違いを認めない人のそばにいるという状況は、必ずしも苦しいことばかりではない。

権力構造は両者の協力の上成り立っている。俺は両者のそんな態度が気に食わない。

ああ、眠い。深夜に行われるいつもの密会、控えれば良かったかな。

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蟹工船を読む

6/16(木)

「おい地獄さ行ぐんだで!」

強烈な一文で始まる小林多喜二蟹工船」。悲惨な労働環境を描いた、プロレタリア文学を代表する作品だ。

プロレタリア文学ってな~に~?

おっと失敬。ここでおさらいだ。プロレタリアっていうのは、資本主義社会において自分の労働力以外に生産手段を持たない人たちのことを指しているよ。戦前、お金のない労働者は今じゃ考えられないほど劣悪な環境で働かされていて、彼らの怒りや叫びを表現したものをプロレタリア文学と言うんだ。

会社にいる時間、めちゃんこ暇すぎてついに読み切ってしまった。仕事中に蟹工船を読んでるの、天国の小林多喜二が知ったらなんて思うだろう。労働者はここまで強くなったぞ、多喜二。

以下、感想。

見慣れない単語が多く、読みづらい箇所がちょいちょいあったが内容はなんとか飲み込めた。ガチ寒で知られるカムチャッカ半島沖で蟹漁をする労働者が、工船内でストライキするお話。ちなみに工船というのは工場と船を合体させたもので、船内でカニ缶まで作れちゃう。そのくせ船でも工場でもないから航海法も工場法も適応されず、当時はやりたい放題だったらしい。だから蟹工船なんだね。

読んでいて、あることに気づく。(・・・主人公いなくね?)そうなのだ。これが今まで私が読んできた作品と大きく異なる点。物語展開の軸が個人でなく集団になっている。

私の知っている範囲の小説では、各登場人物は各々の役割を持って物語を演じている。彼ら自身が物語を動かす要素であるから、当然名前を持っているし、そうでなくとも一発で個人を特定できる記号を筆者から与えられているものだ(例えば、芥川龍之介羅生門」で名前をもっているキャラクターはいないが、”下人”といえば主人公のただ一人に候補は絞られる)。

ただしこの「蟹工船」。作中、名前がついているキャラは敵の一人しか出てこない。他の登場人物も漁夫、雑夫、学生上がり、といった身分・肩書で区分けはとどまっており、個人の細かい心理描写や性格描写も最小限に抑えられている。漁夫が何かを言ったとしても、次のページに出てくる漁夫は先の人とは違うかもしれないのだ。このことから、小林多喜二は「個」よりも「集団」に重点を置いてこの小説を書いたことが伺える。ここではあなたが誰かは関係ない。あなた”たち”がどの立場にいて、何を言いたいのかが重要なのだ。

これは資本力によって虐げられ、虫ケラ以下の扱いを受けてきた労働者が団結し社会に立ち向かう物語だ。

このような構成の小説を初めて読んだ。同時代を生きた芥川龍之介は「羅生門」でエゴイズムを、谷崎潤一郎は「刺青」でサディズムを表現した。どちらも特定の個人を切り口に、「ほら、君の中身こんなんなってるけど大丈夫?w」と、人間の中に潜む何かドロドロしたものを見せつけてくる作品だった。それもそれで大好きなのだが、小林多喜二蟹工船」。これは虐げられた人間の集団心理を描いている。彼らのストライキは失敗に終わったが、同時に教訓も得た。全員で、一人残らず同じことをすることだ。そこで物語は終わっている。火蓋は切って落とされた。「力を合わせれば俺たちにだってやれるんだ!」そう思わせてくれる、危険な作品だった。もう俺、全然”赤化”しちゃう。

そう。危険すぎたのだ。1933年、小林多喜二特別高等警察(秘密警察)による拷問で死亡した。わずか29歳だった。全身が異常に腫れあがった多喜二の遺体を抱いた母は「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」と叫んだという。職場で泣きそうになりました。

ja.wikipedia.org

 

 

 

 

 

親離れできるんだろうな

6/15(水)

応募した南千住ホステルの面接に行ってきた。週40時間の清掃で月の宿泊がタダになるという特典付き。上手いやり方だなあ。僕は当然住み込みを希望しているので、まんまとはめられた。まだ内定貰っているわけじゃないけれど、どうやって生活していこうか考えるだけでワクワクする。ご飯何しようとか、空いてる時間はどこのカフェ行こうとか、色々。

はっきり言って実家が寂しくなる。特に犬と離れるのは心苦しい。でもワクワクしている時は実家のことを考えないで済む。このワクワクを維持したまま行動できれば親離れできるんだろうな。ああ〜ちょっと泣きそう。

 

人がぶっ壊れる瞬間

6/10(金)

今日は少しびっくりしたことが起きた。

いつものようにn回目の休憩で喫煙所に行こうと一階に降りた時。今働いてるところが割とデカ企業なため(正社員ではない)一階フロントは広く、常に大勢の人が用事を持ってそこにいた。何も用事もない俺は外に出ますよ〜っと出口付近を見やると、1人のオフィスカジュアル男性が円を描くようにクルクル回っているのに気付く。大人になっても公転ごっこする人いるんだなあ、楽しそう・・・と思ったが瞬間、

「おいっ!!大丈夫か!?」

と違う男が肩を掴み叫んだ。ちょうど横切る途中だったので公転男の顔を見てみたら、泣いてるのか笑っているのか分からない表情で大量の汗をかいていた。うわ、マジのやつだったのか。あそこにいた複数人は取引先の人だったのかな。当惑しているのが見えた。

時間にして5秒くらいしか彼と接触していないが、その後の3時間はずっとこのことを考えていた。何が彼をああしたのだろう。仕事関連だと思った。1人の人間を追い詰めてまで金を稼ぐな!いや待て、プライベートもあるよな。ちょうどあのタイミングで訃報が届いたのかもしれない。

急な自分語りオタクになってしまうが、俺も似たような瞬間がある。これは後々過去編で話したい。理由はともあれ、彼にはゆっくり休んでもらいたいね。

あと、これは本当に偶然なのだが、n+2回目の休憩あたりで彼と再開した。顔も服装もよく覚えてなかったがすぐに彼だと分かった。車椅子に乗せられてたからだ。

今日は初めて目の前で人がぶっ壊れる瞬間を見た。

 

 

そっと抱き寄せ接吻する

6/9(木)

抹茶は好きじゃない。飲めることは飲めるし、抹茶アイスも食べられる。ただこれは能力的な意味で。もしオーキド博士から好きな飲み物を選べと言われたら迷わず抹茶は除外する。

ではなぜ私が今日、「CRAFT BOSS 抹茶ラテ」を購入したのか。これを説明するのに、読者諸君には少々お時間を頂戴したい。

8時36分。会社の最寄駅に着く。私はいつも通り喫煙所でタバコにしゃぶりつき、その後コンビニで飲料水を買う。いつもは「CRAFT BOSS フルーツティー」(美味い)を現場猫のごとくヨシ!と購入するのだが、今日は逡巡してしまった。なぜか。まずこいつは昨日の時点で4日連続出場しているし、それに累計で30本は消費している。継続こそ力なりとか言うけど、さすがに同じものをずっと摂り続けるのは体に悪い。飲むのを想像しただけで腕が黄色く見えた。でもなんだ、他に何を選べばいいかわからない。また同じやつを購入するか?ただの水は訳わかんないし、お茶だってこれまでの人生散々飲んできた。コーヒーは一日中飲むものでもなく、炭酸飲料はガキくさい。時間がもうない。ああ、わからない、わからない、わからない。

ふと一瞬、若苗色をした小さなボトルが視界の隅に入る。戦国時代のような商品棚でペットボトル達が群雄割拠、しのぎを削っている中、それは私立小学校に通うブルマみたいなズボンを履いた男児のようだった。血みどろな戦場で彼は、涙目ながらもその奥、ああ、やはりこの子も男なのだと、ぶれず前を見据えていた。

気に入った。わしはお前を迎える。彼の手を取りそっと抱き寄せ接吻する。いや不味っ!

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